伝 記 弘法大師空海 

■第一章 神童御誕生

 お大師様は宝亀五年(西暦773年)六月十五日現在の香川県善通寺に御誕生になり、幼名を「真魚」(まお)と名乗り周囲から〈貴物-とうともの〉といわれる程、神童扱いされました。十五才で叔父にあたる漢学者阿刀大足(あとのおおたり)から儒教を学び、十八才で大学に入学します。


■第二章 不遇な修行時代
 しかし、当時の所謂エリートコースに疑問を抱き、家族、親戚の反対を押し切って出家の道を志すのです 。大学を中退し二十才で得度を受け、ボロボロの私度僧(乞食僧)として山岳修行に明け暮れます。 途中「如空」、「教海」と名を変え「空海」と名乗ります。二十四才で記した著書「三教指帰」は儒教、 道教、仏教を物語調に比較し、仏教が他のニ教より優れた教えであることを説き、周囲の理解を得ようと した出家宣言書であります。その序章にては修行の様子も少し伺い知ることができます。断崖絶壁の岩肌 をよじ登り、野山を駆けめぐり、大地の上で眠ります。土佐の室戸岬においては、大安寺の勧操大徳より伝授された虚空蔵求聞持法をお修めになられるのです。この秘法は虚空蔵菩薩様の御真言を百万遍お唱え するという大行であります。結願の座においては大日如来の化身である明星が来迎し、お大師様の御口に スポっと入ったと伝えられております。弘法大師の生涯においてこの十八才から三十才までの十二年間は 全く陽の目を見ることのない、最も辛く長い修行の日々であったといえるのです。

■第三章 入唐求法-中国への旅
 三十才でやっと国家認定の正式な僧侶としての得度を受けられる機会に恵まれることになります。さらに幸運にも、お大師様は三十一才には第十六回遣唐使として選ばれ密教の書「大日経」を求めて、橘逸成らと唐 の都長安を目指すことになります。これは「入唐求法」といわれるものです。一隻に百人は乗船していたと 言う四隻の船は途中で大嵐に見舞われ二隻海中に沈み、多くの貴い学問を志した若者たちが命を落としました。そして、あとの二隻は何とか無事に赤岸鎮という所(現在の福建省)に到着致しました。しかし、一向は今度は唐の役人達に遣唐使であることを認めてもらえず、港で足留めを喰う のです。お大師様は最初は黙って様子を伺っておりましたが、自分の力で皆を救えるならと筆を取り、その卓越した流暢で説得力のある文章で役人たちを驚かせ、瞬く間に上陸許可がおりることとなったのです。一向は今度は徒歩による大行脚により一路長安を目指します。何百キロ、いや何千キロという距離を歩き続け、途中盗賊に狙われることもあったでしょう。しかし、数カ月かけて踏破しつ いに憧れの都、唐の長安に到着致しました。

■第四章 恵果と空海-運命の出会い
 お大師様は、都では西明寺というところに住しました。そしてついに密教の流祖、青龍寺の惠果大阿闍梨 (けいかだいあじゃり)との運命的な出会いを迎えるのです。惠果和尚は密教の第七祖であります。和尚はお 大師様を一目見て「よく来た!よく来た!私は汝が来るのを長いこと待っておったぞ。」と歓待致しました。 そして「私と汝は共に密教を世に広める為に必ずこの世で出会う約束をしておった。汝に私のもつすべての法 を授けよう。」とおっしゃり何千人といる弟子たちを差し置いて外国人であるお大師様を密教の次の伝承者第 八祖としてお選びになられたのでありました。早速、精鋭五百人の僧達が見守る中、〈勧頂〉(かんじょう) と呼ばれるお授けの法要が執り行われる事となりました。金剛界、胎蔵界とよばれるニつの曼陀羅にお花を投 げる儀礼があります。花がどの仏様の上に落ちるかによって、生涯お仕えする仏様が決まります。お大師様の お投げになったお花は、二回共曼陀羅中央におられる完全無欠の仏様である大日如来の真上に落ちました。こ れにはさすがの惠果阿闍梨も「不思議なり!不思議なり!」と驚嘆致しました。そして、遍照金剛という金剛 名号を得られたのでした。惠果和尚はあらん限りの法をわずか数ヶ月の間に惜しみ無く、それはあたかも器の中の水を別の器にうつしたかのように伝授いたしました。和尚は自分が余命いくばく無いことを知っていたのでありましょうか、翌年の正月に次の言葉をお大師様に告げられて、お亡くなりになられるのです。「すぐにこの法を東国(日本)に持ち帰り、天下に広めなさい。そのことが人々と国家を豊かにするであろう。私が生 まれ代わったら汝の弟子となろう。」お大師様はこのお言葉により二十年の予定であった唐の留学をわずか二年に変更してすぐに帰朝することを決意されました。

■第五章 日本への生還-浪切不動明王の御加護
 さて、今度は東国日本を目指します。なんせまずこの長い道中をまた船の出る海岸まで歩いて戻らなくてはなりません。しかもたくさんのありがたいお経、仏像、巻物、仏具をお持ちになり、また死にものぐるいの旅 始まるのです。道中、宿もなく外灯もなく水道もないのです。数カ月も歩き続けそれでもなんとかお大師様 一向は船の発着場に到着致しました。またも木船で大海を渡るのです。今度は自分達の船が沈没して海中に沈 むかもしれません。そうなったら全てもともこもありません。当時の船は今のようにエンジンで動くものでは ありません。帆船と手漕ぎであり、鉄製ではなく木製でした。方位磁針もない時代にどのように方向を定めて 何千キロもの大海を渡れというのでしょう。お日様やお星様の位置で見当をつけるのでしょうか。生き るか死ぬかの問題であります。死ぬかも知れないからといって唐にとどまっている訳にはいかないのです。お大師様には日本に還って密教の法を伝えるという使命があります。後へは引けません。決死の覚悟で大海原へ と船を出します。ザバーン!ザザバーン!ザバーン!ザザザバーン!荒波の中をお日さまの方向だけをたより に船は進むのです。360度見渡すかぎりの大空と大海の中、空海の船は密教伝来の大ロマンを乗せて東国(日 本)を目指します。そして大空から吹きつける大風や波飛沫を全身で受けて、どれほど人間がちっぽけではか ない存在かをお大師様は実感されたでしょう。お大師様は船にお乗りになられた日からずっと仏像を彫ってお られました。それは、一体のお不動様を一人でひたすらに彫り続けていたのです。海は穏やかな日もありまし たがずっと続くわけではありません。やはり、途中またも大嵐に見舞われました。帰りの船旅も、いま船が沈 みやしないかという程の荒れ狂う嵐の中を一行を乗せた船は進みます。それは何日も何日も続くのです。船は 何度も何度も反り返り、大波が甲板の上を幾度も叩きつけます。多くの乗員はひどい船酔いで気がおかしくな ってしまう程なのです。お大師様は御自分で彫った不動明王を前に一人座し、一心に真言(しんごん)をお唱 え始めました。「ノウマクサーマンダー バーザラダン センダン マーカロシャーダー ソワタヤ ウンタ ラター カンマン」何反も何反もお大師様は一心にお唱え続けました。「ノウマクサーマンダー バーザラダ ン センダン マーカロシャーダー ソワタヤ ウンタラター カンマン、ノウマクサーマンダー バーザラ ダン センダン マーカロシャーダー ソワタヤ ウンタラター カンマン、ノウマクサーマンダー バーザ ラダン センダン マーカロシャーダー ソワタヤ ウンタラター カンマン」幾日も幾日もお大師様は一心 にお唱え続けました。するとどうでしょう船は降りかかってくる大波を達ち切ってたちどころに進みだしたのです。まるでお不動様が船の先頭に立ち、右手に握ってる利剣を振り回し波を切り裂いてるかの様です。これが浪切不動明王と言われる所以であります。そしてついに船はお不動様の御加護により、九州の太宰府に無事到着致しました。

■第六章 「御請来目録」と真言宗の開立
 大同元年、暫く太宰府に留まっておられたお大師様は、帰朝の旨を「御請来目録」に記して朝廷に提出します。そこには何を持ち帰ってきたかが具体的に記されております。「仁王経」「華厳経」といった百四十二部 二百四十七巻ものお経の数々、“貝葉”といわれる梵字(サンスクリット語)が書かれたもの四十二部四十 四巻や「大毘盧遮那大悲胎蔵大曼陀羅」「金剛会九会曼陀羅」、密教の流祖様方である金剛智、善無畏、不 空、恵果、一行等の御影、そして密教法具や仏舎利八十粒、その中には金色の舎利一粒もありました。仏舎利 とはお釈迦様の骨の粒状になったものであります。そして白檀仏菩薩像四百四十七尊、正統な法を伝授された 密教の相承者という証明書である印信。これらを全てお持ち帰りになられたのでありました。翌年、お大師様は入京されて真言密教を政治的にも社会的にも独立した一宗として開立する許可を平城天皇から得たのであり ました。

■第七章 高野山開創と社会事業
 弘仁七年、お大師様は嵯峨天皇より修禅の地高野山を賜ります。弘仁九年に勅許後、初登領されたお大師様は 次の様に語っております。「この峰に来たりて山高く、雪深くして人通り難し」この山をもってお大師様は上 は国家の御為に、下は諸々の修行者の為、日本の真言密教の根本修行道場として開創せられたのでありまし た。弘仁十二年、今度はお大師様は讃岐の満農池の修築工事を監督するように任命されます。この時期よりお大師様は社会事業活動に従事することが多くなります。なぜお坊さんであるお大師様が工事現場監督をするよ う朝廷から命ぜられたのでしょう。唐から帰ってきた優秀なお坊さんということですでに天下に名を轟かせて いたお大師様の元には、数多くの百姓達が雲集して参りました。お大師様には、民衆を統率する力と宗教のみ ならず何事も成し遂げる智恵を兼ね備えているというものを、人に感じさせるものがあったのではないでしょ うか。そして、わずか三ヶ月の間に土木工学的にも優れたアーチ型のダムを築きあげました。

■第八章 東大寺と東寺
 翌年には、東大寺に潅頂道場を建立しそれまでの大きな勢力であった奈良仏教の中央に真言密教の道場を進出させたのでありました。お大師様の素晴らしい所は、従来の日本の仏教徒達、つまり顕教である南都六宗と呼ばれ る奈良仏教徒達と全く争うことなく、密教を日本に布教させたことが一ついえるのではないでしょうか。唐の大阿闍梨から正統な法を伝授されたということがいかに大偉業であったか。従来の僧侶達は、「お大師様にはかなわない。」とお大師様を全く別の目で見ていたことでしょう。さらに翌年には、東寺を嵯峨天皇より賜り“教王 護国寺”と名を改め、東寺長座と高野山座主を兼任されることになりました。教王護国寺においては真言宗の僧 侶五十名を常駐させ三学といわれる経律論を専学せしめ、他宗の雑住を禁じました。また鎮護国家の根本道場と して国家の安泰、五穀の豊熟、万人の幸福を祈願し、特に祈雨もお大師様は何度か修法されているのです。鎮護 国家を祈願する代表的な修法は正月における“後七日御修法”があります。これは正月元日から七日までを神事 で、一月八日から十四日までの一週間を真言密教の仏事で行う法会であり、後ろの七日間であるところからこのように呼ばれております。お大師様は“御衣加持”では天皇陛下の御衣をお加持して、陛下がそれを召されるこ とにより災難を寄せつけないことを祈願し、“玉体加持”では結願をむかえた後に天皇陛下に謁見し、玉体(陛 下の御体)を直接お加持することで陛下の無病息災を祈願されたのです。

■第九章 庶民の為の学校設立と衆生救済心
 天長五年、次は京都に綜芸種智院という日本最古の庶民の為の私立学校を設立します。自然に満ちて静かな環 境で、当時一級の先生方をそろえ、当時の全ての学問が学べ、しかも授業料無料の完全給費を実現したのでし た。この大学は今でも種智院大学として現存しております。天長九年には高野山万燈会がいとなまれます。この時の願文に次の言葉があります。「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きむ。」この意味は、この宇宙がある限り、悩める人々がいる限り、悟りの境地がある限り、私の願いが総て叶えられることはないであ ろう。この願文より弘法大師の無限の救済心を感じ取ることができるのであります。お大師様は若い頃より全てを捨てて修行に打ち込んだ方です。命をかけて唐にわたり御自分の身体、手足を使って御自分の僧侶としての人 生を切り開いた方であります。天皇陛下や貴族、外国人やお百姓さん、職人さんや商人、そしてお坊さん達、多 くの人々と直接肌でかかわり合い、その中で本物の生の人生を体験から学んだ方であります。その間にお大師様 はなんと多くの悩める人々を目のあたりにしたでしょう。慈悲心に溢れたお大師様は御自分の中に計り知れない 衆生救済心を宿し、生涯をかけてそれを実行にうつしていくことを決意されたに違いありません。そのことが、 あらゆる社会事業の形となって表れているのです。

■第十章 弘法大師の入定信仰

承和二年、お大師様は長年の肉体の酷使によって健康がすぐれず、もっぱら坐禅三昧に終始しておりました。 そして御自分の命の期のせまることを知り、諸弟子達を集め「御遺告」をお与えになりました。そして三月二十 一日、高野山奥の院に於いて六十二歳をもって“御入定”されたのでした。そのお身体は、荼毘に附されずその ままで坐禅をくみ死を迎えられている状態であります。つまり御入定とは、お大師様が死して未だ生き続け、衆 生を救済し続けていることであり、そこから大師の入定信仰が四国巡礼をはじめ、全国を風靡するのでありま す。今、お大師様は彌勒の世界にいらっしゃいます。五十六億七千万年後にこの現世に蘇って、また必ず衆生を 救済するために現世に現れることを熱望してやみません。そして延喜二十一年、醍醐天皇により“弘法大師”のおくり名を頂戴されました。(終)


南無大師遍照金剛
(文 立江寺副住職)

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